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    市原市五井_三叉路道標

    • 2020.06.09 Tuesday
    • 07:35

    JUGEMテーマ:千葉

     

    五井三叉路

    八幡宿−五所−君塚−波淵で道がクランク状に曲がり五井へ。

    昔、五井の三叉路には、道標が立っていた。

     

    東 江戸道

     

     

    西 たかくら道 きさらずミち 房州道

    東 久留里みち

     

    文化4年(1807年)

     

     

    高倉・久留里などは多くの道標に刻まれるが、なぜ木更津が房州道として刻まれたのであろうか?

    五井大宮神社−出津−青柳と向かうのであれば、久留里街道との関連から姉崎が刻まれるべきであろう。

    字体も異なる。

     

    こんな事情があったか?

    道標を作成する石工は、「たかくら」「牛久」「姉崎」「久留里」などは道標に刻む際に石に張り付ける型紙を作る版木をもっていたので、それを利用し石を刻んでいった。

    「木更津」「房州道」は型紙がなかったのであらたに型紙を作成。そのため、字体が変化した?

    里の道に「木更津」を刻む理由がなく、五井道標の特性だと思われるが、はたして?

     

    【余談 乃木希典忠魂碑】

    「乃木希典 忠魂碑」が各地に残るが、乃木希典による型紙があって、それを利用して乃木神社管理のもとに各地の忠魂碑が作成されたのではないか?

    日露戦争後の乃木希典が生前揮毫したにしては数が多すぎるように思う

     

     

    東の久留里へは

    五井−平田−今富−(尾根道)−立野

    というルートが考えられる。今富の手前で島穴神社から続く道と合流した(島穴神社の近くに道標あり)

    一般的には、八幡宿から山木三叉路を経て大多喜街道を歩き久留里に向かう道を選ぶだろうが、陸路はあまりにきつく

    それよりも海の道を経て姉崎や木更津へ向かうほうがはるかに楽である。

    江戸湾の海の道は、陸の道と繋がり栄えた。

     

    江戸時代、西広からの取水によって農地の開発が進んだ八幡宿や五井周辺は、、海の道/川の道/里の道を繋ぐハブとしての機能ももっていた。とくに五井対岸の出津は、「津」(港)として発展を遂げたのであろう。出津−木更津という港を繋ぐ海路を考えても良いように思う。

     

     

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