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    更級日記追想

    • 2020.06.20 Saturday
    • 11:00

    JUGEMテーマ:千葉

     

    更級日記

    寛仁4年(1020)から康平2年(1059) 作者である菅原孝標13歳から52歳頃までの約40年間が綴られている。

     

    冒頭

      あづま路の道の果てよりも、なほ奥つかたに生ひ出たる人、いかばかりかは あやしかりけむを、

      いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、

      徒然なる昼間、宵などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、

      ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。

     

    あづま路の道の果て

    と、伊勢物語在原業平の東下りを踏まえて

     

    業平は、最果ての地に至りさらなる道の奥へ川を渡るときに、万感の思いを胸に秘め

     名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふひとは ありやなしやと

    現在の東京「業平橋」「言問通り」「言問橋」に名を刻み

     

    更級日記作者は、自らの半生を語り始めるにあたって

    地の果てを流れる川を超えさらなる向こうで「生ひ出でたる人」として出生をあかし

    「いかばかりかはあやしかりけむ」と都人と対比させたうえで、「つれづれなる」ままに

     

    「いかばかりかは」「いかで」「いとど」と連なるのは、語りの文体として

    おそらく、作者の脳裏にはゆかりの読者が想定されていたのであろう。

     

    『更級日記』作者 市原市から帰郷の旅へ

    旧暦九月初旬

     九月三日かどでして、いまたちといふところにうつる。

    日付は当時の日記類を保存していた?

     

    当時の日記は、小野宮実資『小右記』や藤原道長『御堂関白記』など、宮中の儀礼など有職故実を中心に詳しく

    貴族の基本的な日常は、日没とともに寝て、深夜の2時ころ起きて属星(北斗七星)を唱え口を清め、子孫のために日記を書き

    季節によって異なるが早朝6時ころには出仕し午前中で勤務を終え帰宅。

    餓鬼草紙などに見える饗応の日々は誇張があり、御堂関白記などによれば道長は賀茂神社に関係する訴えの判定など雑務に忙殺される日々。

     

    一般貴族は日記は有職故実を中心に子孫に残すものとの意識が強く、宮中儀礼の作法などを中心に日次の記録として。

    菅原家にも、出立の日などを記したメモのようなものはあり、月日などを記したか?

    とはいえ、記録と記憶の違いもあり行程に??というところも

     

    「いまたち」がどこか?

    さまざまな推測が、これからも

     

    門出のために移り住んだところは

     かどでしたるところは、めぐりなどもなくて、かりそめの萱屋の、蔀などもなし。簾かけ膜などひきたり。

     

    そして

     南ははるかに野のかた見やらる。

     東西海近くていとおもしろし。夕霧たちわたりて、

     

     いみじうをかしければ、朝いなどもせず、かたがた見つつ、ここをたちなむこともあはれに悲しきに

     同じ月の十五日、雨かきくらしふるに、境を出でて、下総の国のいかだといふところにとまりぬ

     

    十三歳の少女の目には

     南は遥かに野の広がりが見えて

     東と西は海が間近に迫りとても興趣深く思われて、夕霧もたちこめ

    この部分は、文のつながりと時間の経過が曖昧であり、おそらく思い出が交錯してるのでは?

     

    また、五十歳を超えた晩年の作者の思い出として、市原から見た富士は美しく

     富士の山はこの句になり。わが生ひ出でし国にては西面に見えし山なり。

     その山のさま、いと世に見えぬさまなり。

     

     さまことなる山の姿の、紺青をぬりたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、

     色濃き衣に白き衵着たらむやうに見えて

     山のいただきの少し平ぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮れは火の燃えたつも見ゆ。

     

    市原市小学校校歌で富士が一番多く使用されるとか。

    西に傾斜し、海を越えて富士を望む市原

     

    『更級日記』に記された富士の風景は、上総下総の国境にお住いの大塚氏による次の秀麗な文をもって初めて理解できる。

     埋立てられる前の透明な空気で見た、夏の炎のような落日。

     冬の海に浮かぶ真白き富士、黒々と連なる箱根、丹沢の山塊、そして、東京の背後に秩父が見えた。

     沖合から見返せば房州の山々、裏にかろうじて太平洋を秘める台地は低く長く秩父に及ぶ。

     その景観は海あったればこその感である。

    (古市場 大塚良雄氏「絶景の海」 『昔の市原海岸』2017年2月、共育社、pp.7)

     

    上総と下総の国境を流れる村田川

    古市場は、かつて『更級日記』作者が帰京のおりに通った場所であった。

    村田川河口から八幡宿沖合に広がる砂州は、日々形を変え

     

    海に広がる砂州から見た富士の姿は、『更級日記』作者の脳裏にも深く刻まれ

    あるいは、阿須波神社あたりの丘陵の上から?

     

    おそらく、ポイントで絞り込むのではなく、総体として40年の月日を超えて思い出された心象風景なのであろう。

     

     

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